ココロのペ−ジ
〜マルファン氏との会話〜

分はマルファン症でなかったことはない。
この先もきっとそうなんだろう・・・・・・。

まわりのみんなとはちょっとばかし違う体を持ってる自分。
「違う」ことがとても嫌だった自分。

すべてをマルファンのせいにするつもりはないが、影響を受けないはずはない。


子供のころみんなと一緒のことができなかった。
今思えばつまらないことだけれど、当時は大問題だった。
見学ばかりだった体育、別ル−トでの遠足、放課後残れなかった歓声のあがる校庭。
みんなの中に入りたかった。

高校で美術科という道を選んだのはそんなことが関係しているのかも知れない。
「違う」ことが美徳とされる美術の世界。
「違う」ことが自己肯定できる世界。

「違う」ことが悪いことではないことだってわかりはじめた。

そう思いはじめてから、世界が変わってきた。
これは個性なんだ・・・・と。

溶け込みはじめた自分。
それを拒否しようとする自分。

マルファン症としての自分。
表現者としての自分。

そして、接点を探して・・・・・・・・・。

姿カタチ
バレ−にバスケ。「入らないか?」「やってたの?」

背がちょっと人より高いってだけ。
悪気がないの承知してる。ほんの挨拶がわりの言葉。

もっと外見上わかりやすい病気ならよかったって何度も思った。
あの人は体が悪いんだってすぐわかってもらえるような容姿がよかった。
不謹慎な言葉かも知れない。
病による望まない外見で苦しんでられる方もいるだろう。
だけど、この病気がすぐ他人にわかってもらえるようなものなら
少しは自分が変わっていたかも知れないなと思う。

病のことを話さなきゃいけない。
出来ないことは出来ないっていわなきゃいけない。
自分を守るために。

いえないいえないなかなかいえない。

放り出される気がした。
嫌われる気がした。

今は少しはマシになったと思う。
作品のテ−マに選んだことがよかったのだろう。
やっぱり逃げるより向き合った方がいいんだ。

本当のところはどっちが幸せなのかはわからないけど。
今でも病のことがもっとわかりやすい容姿ならって思うことがある。

でももう少しなんだ。
マルファンの体形がかっこよく思えてきたから。
この体は武器になるんだ。

マルファン症は見た目だけではわからない。
個人差はあるとは思うけれど、少なくとも自分の場合外見上での判断は
専門家でない限り難しいと思う・
病の人、人の病
自分という人間が他人に認識されようとするとき、「病」の人なのか「人」が病なのかで、そのイメ−ジは随分違ったものになるであろう。

まず自分という人を知っていて、その人が病を持っていた、ということと
なにか病を患っている人がいる。それが自分である。
この2つは同じ様でまったく異なる。

もっとわかりやすく言うと、なんも病気のこと知らんとつきあっていて後から
「え〜そうやったん!!」と思われるのと、はじめからこの人は病気なんだという
情報を持っていてつきあいはじめるのとは全然ちゃうってことなんよ。体験的に。

人付き合いにおいてこれはけっこう重要なことで、どちらがいいとは一概には
いえないけど、いったいこの差ってなんなんだ・・・。

おんなじ一人の人間なのにね。

これは、病気だけにいえることじゃなくて、他の・・・そうだな職種や性別やなんやかんやでも同じようなことってあるのではないのかな。

はじめの情報の有無から人のイメ−ジっていうか、思われ方ってすごく
違ってくる・・・・仕方がないことなのかな。


「病人がなんかしてる」「なんかしてる人が病人」全然違うのだな。これが。

「病気であること」に対して、変に気をつかいすぎてくれたり、逆に全く無視されたり
当の病人もけっこうしたたかに使い分けてるところも正直あるんだけれども
もっと「病気であること」が自然になればいいな。
死について
胸を切る前までは、手術=死っていうイメ−ジだった。
今考えるとかなりばかばかしいことだけど、当時はほんとにそう思っていたのだから仕方がない。
物理的なものよりも精神的なものが大きかったのだろう。
確率的には圧倒的に成功するほうが高かったし、実際成功しているのだから・・・。

あの頃の自分には手術へ恐怖や不安に正面から向き合えてなかったのだと思う。
だから、心のどこかで「死」に逃げ場を求めてたのかもしれない。「死」を恐れながらも・・・・
失敗したら麻酔からさめないだけ・・・・・苦しみなんてない・・・なんとも無責任で自分勝手だけど
そんな風に思わなければ、恐怖に押しつぶされる自分しかそこにはいなかった。

幼いころから「死」を意識してきた。必要以上に意識してきた。せざるを得なかった。
死ぬのはこわかった。とても恐ろしかった。
死ぬことがこわかったから生きていた。そんな感じだった。
手術が怖かった。ドクタ-の口からその言葉が吐き出される度に闇に包まれた。
死んじゃうかも知れない・・・・・・・。
なぜだかわからないけど、手術という言葉は長い間「死」と同じ意味を持っていた。

話が決まったとき、
あれだけ恐ろしかった「死」に逃げ場を求めた。


そして、1つの山を越えた。
「手術=死」ではなくなっていた。


今も死ぬことはこわい。
でも今の自分は死ぬことがこわいから生きているのではない。
生きていたいから死と向き合おう・・・・・・そう思う。
許さん!!

「その子の立場にたって考えてごらん、どう思うそんな風にされたら?」

小学生。まだまだ幼さが残っていた頃であろうか、ある日の学級会で
ヨ−クシャテリアを欲しがってた憧れの担任の先生は、そんな風に僕たちに問い掛けた。
その頃クラスではちょっとしたいじめが存在していた・・・・いや当人にとっては「ちょっとした」ことでは
なかったかも知れない。
無視・・・・・それがいじめの正体だ。
この日以前にも何度か議題になっていたような気もする。
でもそれは息絶えることなく続いていたのだ。
何が原因だったのかは憶えてない。
その子が殻に閉じこもることになり、まわりはそれを好意的には受け取らなかったという事実だけ。
何も出来ない自分がそこにいた。

話し合った。小学生なりに、真剣に、意見を出し合った。
やっぱりいけないってみんな感じはじめてた。先生のあの一言で・・・・・。
「積極的に話かけよう」「あいさつはどうかな?」
今さらだけど心を開いてもらいたくて・・・・・・

その日から、ぼくは自分でもちょっとおかしくなる位、積極的に声をかけ挨拶をした。
正直なんかしらじらしい気もしたけど、そうすることが最善だと信じていた。

「人の立場になって考える」・・・その言葉は、今でも、ぼくのなかに呪縛のように存在する。
人生を変えた一言といっても過言ではないだろう。
自分を正しく導いてくれる自分を励ましてくれる自分を・・・・・苦しめる。

人の立場になる・・・・ことなんて無理だ。絶対に。
いくらがんばってみたってその人の本当の気持ちなんてわからない。
うれしいことも悲しいこともつらいことも楽しいことも。
本当は、ぜんぶぜんぶわかりあえればいいのだけどそれは無理なことなんだって学んだ。
ぜんぶ理解してあげるってことはできっこない。理解してもらうことも。

でも、それでも、うれしいことも悲しいこともつらいことも楽しいことも、
わかってあげようとすることは出来るはず。そうすることで何か通じあえるならそうした方がいいに決まってる。
だからそうやって生きてきた。時には相手を傷つけたり、自分を苦しめたりってこともあったけど、
ぼくはそうすることが正しいと思っているから。

ぼくは他人の気持ちを考えようとしない、思いやりのないヤツは大嫌いだ。
そういうヤツに出会うと自分でも異常だなって思うくらい攻撃的になってしまう。冷静さをなくしてしまう・・・・。
人それぞれ色んな考え方があるだろうし、自分の考えを押しつけるのはいけないことなのだけれど
もう理屈じゃなくて感情が許さなくなってしまっている。


あの子は今どうしているだろう・・・・・。
表現すること
色んなところ、色んな形でマルファンを表現することにした。
今までだって、別に積極的に隠してたわけじゃないけど、なんとなく避けてたような感じはある。
もっと一般的にマルファンのことを知ってもらいたい、そうすれば変な誤解や差別はなくなるかもしれない。
自分が堂々とすることで他の誰かが元気になってくれるかも知れない。
そんな立派な考えからではない。そういう意識もないわけではないけどね・・・・。
ただ、言っちゃったほうが楽だと思ったから。それだけ。
なんか身もふたもない言い方だけど。
もちろん何かしらのいい影響を与えられればうれしいけれど、本当の理由はそれよりもっともっとパ−ソナルなことだな。
カッコつけてみたい気持ちもあるけど・・・・・・まあ正直なとこそうだから。

絵を描く・・・・どんな?・・・・・なんか病気の絵になっちゃうよなあ、オレ・・・・・ならテ−マにしちゃえ!
ホ−ムペ−ジつくる・・・・どんな?・・・・・ん〜絵と・・・・他なんかあるかオレ・・・・・・病気のこと書いちゃえ!
どうせなら大々的にカンバンさげてやってまえ-てなもんである。

だって、「マルファン」とか「病気」ってインパクトある言葉だと思うもの。
それなら利用してやろうって。

チャットするにせよ、初めてHP観にきてくれる人にせよ、自分の印象を強く与えるには持ってこいだし、
そうすることでたくさんの人におぼえてもらえる。知り合いになれる。

個展のタイトルに付けたのだって効果あったしね。
絵描いてるヤツらなんて星の数ほどいるわけだし人集めるウリにはなる。
もちろん作品の良し悪しは別だけどね・・・

俗物根性ってのはわかってる。
こういう考え方を批判する人がいることもわかってる。

でもね、こんな反感買いそうなこと書いてるのはそれが本音だから。
マルファンで嫌な思いもたくさんしてきたし、その分を少しくらい取り戻しても悪くはないだろって思う。
転んでもタダでは起きるもんかい。

今までマルファンであることをネガティブにとらえてきたから、それへの反発かな。
自分の中でマルファンをポジティブに考えようとしてる、表現することはその過程の一部。

だからマルファンを表現することは、ごくごくパ−ソナルなこと。自分のため。
今のところはね。
医療について


「医療について」って、言ってもそんなにたいしたことじゃないんだけれどもね。
今まで、何度も病院に行って、たくさんのドクタ-やナ−スとかの医療関係者に会って・・・・
そんな経験から思うことを書こうかなと。

まず言いたいのは、いったいニッポンの医療というものは、患者及びその家族、親戚一同などの気持ちを
本当に考えておるのか!!ということなのね。
病院はいったいなんであんなに殺風景なんだ?なんであんなに暗いとこが多いんだ?
カラダもココロも弱ってるものがいくとこだろ-が。なぜにもっと「雰囲気」とか「空気」とかいうものを考えんのか!
1歩病院の中に入ったら、余計に悪くなりそ-な感じすること多かったぞ!
もちろん、機能的モンダイだとか経済的ジョ−キョ−だとか色々理由はあるのだとは思うけれどもだ。
実際診てもらうためでなく病院にいくという時・・・え-たとえばお見舞いとかだな。
そんな時にさえ行きたくないっていう人もいたぞ。自分がどこか悪いわけじゃないのにだ。
まして病人は、悪くなってないかな、痛いことされないかな、怒られないかな・・・・・と色んな不安を抱えつつ
いくわけだ。最後の理由はよくわからんけどもだ。とにかく不安なのだあ。

ちょっとコ−フン気味だなオレ。
なんだか何がいいたいのかわからなくなってきたぞ・・・

え-、つまりですね。
病院という空間をですね、もう少しですね、心理的、精神的にリラックスできるところにしてほしいのですね。
患者が抱えてる不安を少しでも和らげてくれるような空間になったらいいと思うのですね。

これは、ドクタ-とかナ−スについても同じように思うのですね。
気持ちを大切にしてほしいのですね。技術や知識はもちろん必要ですよ、でもそんなもんはあって当然なのね。
たとえば初めての検査の時ですね。事務的にやらないでくださいね。
こっちはものすんごくコワイ時もあんのね。
医療側からいうとですね、メシ食ったりクソしたりすんのと同じ日常茶飯事的検査といったものでもですね
こっちは非日常なのですね。そこんとこをよくわかって欲しいのですね。
注射1本でもおんなじ。
ドクタ-やナ−スは1日何本針刺すのかしんないけども、
ま、ひとりひとりの患者って、何本も打つ中の1人、その他大勢、一山いくらって感じなんでしょうけどもね。
こっちにとっちゃそんなに頻繁にあることじゃないわけですね。
刺されるの生まれてはじめてって人もまじってるかもしれないわけですね。その他大勢の中に。
だから、もうちょっと「個人」「個別性」というものを大切にしてほしいと願うわけであります。

そうしてもらえると、自然と精神的にも落ちつけると思うのですがいかがのもんですかね?
医療について
ストレスなんてものは、多かれ少なかれ人間誰しも受けているもんだと思うけれど、
自分の場合、その解消法ってのに困ってしまう。

スポ−ツで発散!とか酒飲んでパア---っとていうわけのは、いかんのだワタクシの場合。
これってけっこうつらいんよ。

根っこの部分ではスポ−ツってすごい好きなんよね。観るのも好きだし。
それができないもんだから、余計にストレスがたまったりなんかして。

お酒もそう。実際飲んでいいってなっても、ほんとはたぶん飲めない体質と思うけど
やっぱりお酒飲める人ってうらやましいな。楽しそうだし。
この齢になると人集まるっていえば、飲み会ってパタ−ンが多いし、
参加はさせてもらうけど、ほとんど飲まないことに気使うし、なんか寂しいね。

やれないことだから余計に思うのだろうけど、この2つってストレス解消法としては
最適のものだと思えてくるわけですね。

だけどダメなのね。

もちろん、ストレス解消はカラオケでキマリィの人とか、おしゃべりが一番よねえの人とか
ロケンロ−ルだぜベイベ-とかの人もいるのだと思うけど、なんか違うのだな。
カラオケは歌えない・・・・ってか歌は好きだけれども人前ではちょっとなあの照れ屋さんだし
おしゃべりは我が強いわりには、気を使う人なのでよほど気が合うメンツじゃないとダメだしい。
ロケンロ−ルは、まわりが盛り上がってると盛り下がるタイプだしい。あ、これはカラオケにもいえるか。
かなり勝手なやつだなこりゃ。

なもんでたま-にイス殴ったり、壁けったりしてしまうのだけれども・・・・う-ん
なんかいい方法ないもんかねえ・・・・。

カラダ

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